釣友からのメール

Stun・・・タカ

2006年12月26日 00:13



昨年のような心躍るナブラはいったいどうなったのか?
ベイトがどうのこうの、気象がどうのこうのと考えている毎日である。中部のある港では散発的であるがオニヒラアジのナブラが出ているようで、いい釣果報告も聞いている。
僕がミジュンという魚を見るようになってから2年も経っていない。2年も経っていないのだから、当然今まで見たパターンは原則といえるかどうか疑問である。上がってきた調査データつまり統計上の母集団はどうしても多いほうがいい。否、少ないと危険である。2年というと結局二つしか拾えていないのだから。一方は原則かもしれないがもう一方は例外かもしれない。あるいは未だ例外しか見ていないのかもしれない。
自分がテーマを決め考えようとするとき、自分が出した結論をより間違いの無いものにするためには、言い換えると、結論を一つに収斂させるためには考えられる限りの資料が必要であると考える。客観的な見地に立つためには当たり前なのだ。しかし自分自身をコントロールするのは自分であって他人ではない。よって自身の脳に蓄積された良きにつけ悪しきにつけ経験、思考精度・速度に左右されるものである。資料が少ないとこの部分が幅をきかせるために精度のかけた主観的なものになってしまう。またここで使った「資料」というものに対して、僕の場合は権威筋さえ信用しない。あくまでもデータであって、政府が出そうが大学教授が出そうが自分で探してきた十分に裏の取れたものを考慮する。それも能力であろう。そうでないと不安なのだ。


次に問題となるのは自身の経験の質と量である。自分が尺度になっているので自分が培った経験の質と量が、一つの論を講ずるときに他と比べて十分勝るものであればそこから導かれた結論は説得力がある。逆であると悲しい。経験に年齢はないというのが持論であるが、そこはやはり「亀の甲は年の功」である。年長者の経験は大いに役に立つ。ところがありがたい話しを聞いたはずなのに若いうちは失敗をやらかした。それを先輩方は「それ見ろ!視野をもっと広げろ」と叱咤激励し僕を育ててくれた。僕自身が後輩を持つような年齢に達した今、やはりそういう眼で後輩たち、社員を育てるべきなのであろう。それが社会に対する恩返しなのかもしれない。


先ほどクリスマスパーティーが終わって一息ついた。甥っ子たちを見ていると無邪気なものである。非常に厳格な父親に育てられた僕と違ってプレゼントのゲームの虜となっている。この子達の親に代わって授業参観にも参加したことがある。仕事上様々なことを知りえる立場に僕がいることを知っている方も少なからずいるであろうが、子供たちをバイトさせきれない学校現場を憂いながらそのシステムの不備を嘆いている。さらには見当違いの極論をする昨今の著名人の出現にはまるでベイトを見誤る釣り人のようで非常に悲しい。
昨夜の釣友からのメールには、60m水深でオニヒラが上がっているという情報があった。オニヒラも子供たちと同様早く目的、目標を持ってもらいたい。そして深い水底から一気に勇躍、真の姿を見せてもらいものだ。それはいつのことであろうか。



まっ他意はない。
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